■ 解説
草の戸は草庵(屋根を草で葺いた簡素な作りの住居)の木戸、ひなは雛人形を指します。芭蕉が旅に出たのは3月ですので、出発時の状況と季語である雛(祭り)を組み合わせた大変素晴らしい句です。
■ この詩が詠まれた背景
この句は奥の細道に書かれている最初の句です。
奥の細道の序文に「月日は百代の過客にして・・・」とあるように、松尾芭蕉は45歳の頃、歌人西行の500回忌(1689年3月27日)に合わせて、衝動に駆られ旅に出ます。
その際、兵右衛門夫婦に当時住んでいた家の芭蕉庵を譲ったのですが、そこにはこれまで一人暮らしで侘しさのあった芭蕉庵には無かった、賑やかで明るい暮らしが芭蕉の目には映ったのでしょう。
ちなみに、兵右衛門夫婦は、「この人なむ、妻を具し、娘・孫など持てるひとなりければ」と書かれていることから、少なくとも孫の居る年齢、結構お年を召した方だったのではないでしょうか。
■ 豆知識
芭蕉は旅に出る際、河合曾良という弟子を伴って旅に出ています。
曾良はこの時『曾良旅日記』という書を残していますが、日程にかなりの差異があることから、さまざまな憶測が飛び交っています。
松尾芭蕉は「奥の細道」で書かれた行程、六百里(2400キロ)を約5ヶ月で移動しており、また伊賀出身で出生が正確でないことから忍者説もあります。
松尾芭蕉の時代、俳句というものは存在せず、俳諧と呼ばれていました。
「俳句」という言葉が成立したのは正岡子規が俳諧の中の発句を俳句としたことが始まりとされています。
俳諧には複数人で詠み合う連句(連句も明治時代に作られた言葉です)も含まれるため、ご注意ください。
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