奥山に(猿丸大夫)

短歌 に関する記事

奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の
声聞くときぞ 秋はかなしき 猿丸大夫

■ 訳

人里離れた山奥の、紅葉を踏み分けて入った先で鳴いている鹿の(人恋しい)声を聞くと、秋って悲しいなって思うんだ。

■ 解説

「奥山」は山奥のことを意味します。
「ぞ」には「とても」といったような強調の意味が含まれているので、鹿の声を聞く秋は(他の季節よりも)とても悲しい、といった意味になります。

■ この詩が詠まれた背景

この歌は古今和歌集(第四巻 215首目)、小倉百人一首の第五首目に記載されている歌です。古今和歌集には「よみ人しらず」として選句されています。

鹿は「フィー」とか、「ピィー」といった高めの声で鳴きます。悲鳴のようにも聞こえますが、繁殖期のオスが自らの縄張りを主張する際に出す鳴き声です。

■ 豆知識

花札でおなじみの紅葉と鹿の組み合わせはこの歌が発端です。

猿丸大夫は三十六歌仙の一人に上げられる有名な歌人ですが、猿丸大夫が誰なのか、本当に実在していたのか、今現在でも殆ど何もわかっていない伝説の歌人です。
『猿丸大夫集』という私選集が作られていますが、本人の作がどれだけ含まれているか分かっていません。

猿丸は名で大夫は官職を示しています。小野猿丸と言う名前だったと言う伝承が残っていますが、詳細は不明です。
万葉仮名で書いたこの詩の中に「カキノモト」と読める文字が含まれていることなどの理由から、柿本人麻呂と同一人物でないか、と言った説まであります。

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コメント

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猿丸大夫は本当に柿本人麻呂? それとも弓削道鏡?
Posted by 林淳一 at 2021年06月27日 09:38
林様、初めまして。
当ブログにコメントを頂けて、とてもうれしいです。

猿丸大夫の正体は殆ど解っていないのですが、ほぼ確実に言えることは、700年頃から900年前後までの期間に活躍した人物であると考えられていること、五位以上の官位があったこと、詠まれた歌の真作が不明であることなどが挙げられます。
猿丸大夫は藤原公任(966年-1041年)が選んだ三十六人撰(三十六歌仙の元となった私家集)のうちの一人に選ばれているのですが、その中で取り上げられている詩はすべて古今和歌集に載せられていて、読み手の分からない「よみ人知らず」となっています。

具体的には
「をちこちの たづきもしらぬ 山なかに おぼつかなくも よぶこどりかな」
(古今和歌集 春歌上 29首:題知らず、よみ人知らず)

「ひぐらしの なきつるなへに 日はくれぬと 思ふは山の かげにぞありける」
(古今和歌集 秋歌上 204首:題知らず、よみ人知らず)

「おく山に 紅葉ふみわけ なく鹿の こゑきく時ぞ 秋は悲しき」
(古今和歌集 秋歌上 215首:是貞親王家歌合(890年-892年頃開催と推定)、よみ人知らず)

の三首で、実際に是貞親王家歌合に参加していたとするなら890年頃活躍した人物と考えられます。
(柿本人麻呂は660年-724年頃の人物、道鏡は700年-772年の人物です。)

そのため、一般的に支持されている(別名義を持たない)小野猿丸説が一番信ぴょう性が高いと言えるかと思われます。


ですが、ここで問題になってくるのが古今和歌集の大友黒主について書かれた真名序で、「大友黒主之歌、古猿丸大夫之次也。(大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり。)」と書かれており、明らかに大友黒主(860年頃から900年頃に活躍)より昔の人物であることが明記されています。

ほぼ同じ時代の出来事を古と表現できるのかどうか判断に迷いますが、もしかしたら猿丸大夫を名乗る人物は二人以上いた可能性も考えられます。

あくまで仮説ですが、例えば伝説の大工である左甚五郎が高い技術を持った工匠の代名詞であるように、名は知られていないが詩の名人を猿丸大夫と称したのかもしれません。
Posted by waka at 2021年06月27日 19:24
猿丸大夫は平安時代の人だと思うぜ なあピカチュウ

チャー
Posted by サトシ at 2021年07月04日 16:12
サトシ様、コメントを頂き、本当にありがとうございます。

サトシ様のご意見では、平安時代は794年から1192年頃までの間になるので、道鏡や柿本人麻呂は(弓削王、弓削皇子説も)対象外になりますね。

猿丸大夫の詩とされており、唯一題のある「是貞親王家歌合」ですが、現在伝わっている「是貞親王家歌合」の中にこの詩は載せられていません。
記録として書き記した際、あるいは写本した際にミスをした可能性がないわけでもないですが、ほぼ同時期に行われた「寛平御時后宮歌合」の82首目に載せられていることから、誤記ではないかという説があります。
https://lapis.nichibun.ac.jp/waka/waka_i160.html

その説を元に「寛平御時后宮歌合」で詠んだ歌人について調べてみたところ、「紀友則」(845年-907年)、「紀貫之」(866(872)年-945年)、「源当純」(880年頃-909年以降頃)、「素性法師」(850年頃-910年頃)、「藤原興風」(850年頃-914年以降頃)といった現在でも名の知られている歌人が列挙されているのですが、猿丸大夫が同時代の人物だとすれば、850年頃-950年頃活躍した人物であると仮定できます。
(※殆どの人物が生没年不詳なため、「頃」表記している人物については記録に残っていた年代からあたりをつけて適当に算出しています。)

当時の人にとっては顔見知りであったであろうと想像できるのですが、そんな中、わざわざ名前を消して「よみ人知らず」として詩を残すというのはやはり不自然と言えます。
そのため、猿丸大夫は(罪を犯した、政敵であったなどの理由から)名前を出すのが憚れる人物であった、本当は一般人で貴族ではなかった(「大夫」は貴族の歌合に参加するために一時的に付与された)、本人が名前を残すことを固辞した、といった可能性が考えられます。

根拠は皆無ですが、もしかしたら旅芸人のような歌詠みを専門とした個人あるいは集団で、そのため古今集の真名序に「古の猿丸大夫の次なり。」といった表現が使われたのかもしれませんね。
Posted by waka at 2021年07月04日 22:05
奥山にを作ったのは本当はだれだろう?
Posted by くいしんボン at 2021年07月10日 09:29
わたくしは猿丸太夫は柿本人麻呂の別名だと思います
Posted by ケン・バーン at 2021年07月10日 09:32
僕とムクムクは奈良時代の人かなと思います ねえムクムク
ムームー
Posted by オオガーラとムクムク at 2021年07月10日 09:33
もし猿丸太夫の歌だったら猿丸さんは歌合わせでどんな気持ちで作ったのかね
Posted by メロディーヌ at 2021年07月10日 09:35
猿丸太夫は弓削皇子だと思うで
Posted by あまくま at 2021年07月10日 09:36
なぜ百人一首に猿丸太夫を載せたのでございます?
Posted by ふじおばば at 2021年07月10日 09:38
奥山にをつくったのは一体本当はだれだろう
Posted by たまごおうじ at 2021年07月10日 09:39
猿丸太夫は弓削王?
Posted by たまごおうじ at 2021年07月10日 09:40
やあぼくは猿丸太夫はだれのペンネームかなと思うね
Posted by じょうろう at 2021年07月10日 09:41
猿丸太夫は架空の人物?
Posted by はなはなマロン at 2021年07月10日 10:02
猿丸太夫は奈良時代の人じゃないか?
Posted by カスミ at 2021年07月10日 10:04
くいしんボン様、ケン・バーン様、オオガーラとムクムク様、メロディーヌ様、あまくま様、ふじおばば様、たまごおうじ様、じょうろう様、はなはなマロン様、カスミ様。
沢山のコメントを頂き、本当にありがとうございます。

> くいしんボン様、ケン・バーン様、オオガーラとムクムク様、あまくま様、たまごおうじ様、じょうろう様、はなはなマロン様、カスミ様。

猿丸大夫が何時の時代の人か、正体が誰だったのかは今でもわかっていません。
私などよりも遥かに優秀で長年研究を続けられてきた方々の間でも見解が分かれているのが現状です。

私選和歌集である猿丸大夫集には最大52首(写本により異なります)の詩が載せられているのですが、その末尾に「元慶以往人也(元慶(877年-885年)以往(以後)の人なり)」と書かれており、平安時代の人物とされています。
https://neige7.pro.tok2.com/challenge_034.htm#sarumaru

ですが、この猿丸大夫集には万葉集に載せられた詩(780年頃までに成立)と古今和歌集に載せられた詩(912年頃までに成立)が混在しており、この事がさらに話をややこしくしています。
藤原定家(1162年-1241年)が選歌した小倉百人一首(1235年頃成立)では通常、古い時代から新しい時代の順に詠まれた歌が載せられているのですが、五首目に載せられていることから、定家自身は古い時代の人物と考えていたのではないかと思われます。

個人的な印象としては、猿丸大夫が詠んだとされる三首はいずれも樵歌で樵夫(木こり)を生業としていたのかも、と思っています。
ちなみに和漢朗詠集(1018年頃成立)には樵歌は趣あるものとして記されています。
https://ja.wikisource.org/wiki/%E5%92%8C%E6%BC%A2%E6%9C%97%E8%A9%A0%E9%9B%86

三十六人撰に記されている残り二首を簡単に訳すと、
「をちこちの…」は「あっちにもこっちにも手がかりの無い山中で(ただでさえ不安なのに)カッコウの声が不安にさせるよ。」
「ひぐらしの…」は「ひぐらしが鳴き始めるとともに日が暮れたのかと思ったが、(ここは)山の影だったのか。」
となるのですが、いずれも山中の出来事であり、道の無い深い山を想像させるためです。
(「猿丸」という名前も山岳信仰とつながりがあるようにも見えます。)

普段は木こりで、一条天皇の飼い猫である「命婦の御許」のように歌合に参加してもらうために官位を授けた、といった形だったのかもしれません。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%BD%E5%A9%A6%E3%81%AE%E5%BE%A1%E8%A8%B1

ただ証拠は皆無ですので、鵜呑みにはなさらないでくださいね。


> メロディーヌ様。
歌合で詠んだ猿丸大夫の気持ちについてですが、これは本人でないと解らない問題ですね。
もし一般人であったなら緊張も喜びもあったかと思います。
現在も行われている皇居勤労奉仕に参加する気持ちに近いのかもしれませんね。


> ふじおばば様。
なぜ百人一首に猿丸太夫を載せたのかですが、定家が古今和歌集の真名序、三十六人撰を重視したことは恐らく間違いないと思います。
ただ、「よみ人知らず」の詩しか残されていないという点は定家も頭を悩ませていたのかもしれませんね。
Posted by waka at 2021年07月10日 16:29
猿丸大夫は誰なのか知りたいです」
Posted by 酒寄智之 at 2021年07月17日 12:35
酒寄智之様、その他当ブログに多くのコメントをご投稿頂いた方へ。
たくさんのコメントを頂きありがとうございます。

過去投稿された内容と類似した内容が多かったため、最後にご投稿いただいたコメントについてのみ、お返事を書かせていただきます。

ご質問をたくさん頂いた経緯もあったことから、当ブログとは別のサイトの開設を検討しています。
出典のある資料を元にした資料専門のサイトになる予定です。
私がこれまでに調べられるだけ調べた資料を元にする為、これまでに頂いた殆どの疑問を解消できる形になると思います。
(1ページ作成するコストが非常に大きいことと私自身が基本的に無精者なので、完成させる前に寿命が尽きる可能性の方が高そうですが。)

進捗について、外観のデザインは現時点で3割程度完成している状態です。
まだ始めたばかりで仕様もまとまっていないこともあり、本当に完成するのかどうかもわかっていない状況ですが、夏休みが終わる頃ぐらい(9月頃)までにはせめて箱となるサイトの外観程度は公開できたらいいなと考えています。

記事の内容について疑問点は多々あるかと思いますが、今しばらくお待ち頂ければ幸いです。
Posted by waka at 2021年07月17日 16:46

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