■ 解説
「天の原」は空、「ふりさけみれば」は見上げてみれば、「春日なる」は春日山から、「三笠の山の」は三笠山に、「いでし月かも」は昇ってきた月なんだなぁ(感嘆)といった意味になります。
古今和歌集に「もろこしにて月を見てよみける」とあることから、中国(南方)で月を見て詠んだ詩です。
■ この詩が詠まれた背景
この歌は古今和歌集(羇旅歌 406首目)、小倉百人一首の第七首目に記載されている歌です。
阿倍仲麻呂は、遣唐使として中国に渡って活躍した人物です。
古今和歌集に「この哥は、むかしなかまろをもろこしにものならはしにつかはしたりけるに、あまたのとしをへてえかへりまうでこざりけるを、このくにより又つかひまかりいたりけるにたぐひて、まうできなむとていでたちけるに、めいしうといふ所のうみべにてかのくにの人むまのはなむけしけり、よるになりて月のいとお もしろくさしいでたりけるを見てよめるとなむかたりつたふる」(この歌は、昔仲麻呂を(遣唐使として)中国に学ばせに遣わせた際、(仲麻呂は)何年経っても帰ることが出来ませんでしたが、ついに帰国の船がやってきました。(遣唐大使藤原清河と共に連れ立って)出航する際に、明州(現在の浙江省寧波市)という所の海辺で(お世話になった中国の)人が宴の席(うまのはなむけ)を用意してくれましたが、夜になり、大変にすばらしい月が出た様子を見て、(この詩を)詠んだと伝わっています。)とあり、在唐35年後、ようやく帰国できることになった際に、望郷の想いを詠んだ歌といわれています。
■ 豆知識
阿倍仲麻呂は、実に波乱万丈な生涯を送った人で、遣唐使として吉備真備らとともに唐に渡った後、競争率3000倍とも言われる科挙を受験。
合格したため、唐で官位を受け、詩仙李白や詩仏王維達と親交を深めます。
在唐35年を経過した頃、来唐した遣唐使とともに日本に帰国しようとするのですが、暴風雨に遭い漂流。
なお、この時落命したと誤報を受けた李白は仲麻呂追悼の歌を残しています。
漂流後、(当時唐の統治下であった)現在のベトナムに漂着した仲麻呂は、それから3年をかけて長安に戻るのですが、この年安史の乱が起こります。
日本から迎えの遣いが寄越されたのですが、この時期に移動することは危険との理由で帰国できず、再び官職に付くことになります。
ベトナムで6年勤め上げた後、日本へ帰国することが叶わぬまま72歳で生涯を閉じました。
なお、遣唐大使であった藤原清河も日本へ帰国することが出来ず客死しますが、唐で結婚しており、その娘喜娘は遣唐使船で日本に渡っています。
同期の吉備真備が仲麻呂の生霊に何度も助けられる、といった伝説が残されています。
在唐中に日本の遣唐使船が難破する事件がおきたのですが、仲麻呂の奔走により唐に帰国の費用を出してもらい、帰国させるといった上奏を許して貰っています。
当時、如何に仲麻呂が信用され、重用されていたかが分かるエピソードです。
コメント