■ 解説
「難波がた」は大阪市中央区に存在したという遠浅の湿地帯(歌枕)を、「短き葦の ふしの間も」は葦の間の節の部分(とても短いことを指します)を指し、「逢はで」は逢う事も無く、「この世を」は一生、「過してよとや」は過ごしなさい、というの?といった意味になります。
ちなみに、節と節との間のことを「よ」ということから、「この世」と掛けた言葉になります。
■ この詩が詠まれた背景
この歌は新古今和歌集十一巻(1049首目)、小倉百人一首の第十九首目に記載されている歌です。
今は存在しませんが、昔、大阪市中央区周辺は入り江となっており、遠浅の湿地帯が広がっていました。
古墳時代には水運の一大拠点として港湾施設が設置され、大化の改新後には難波長柄豊碕宮が作られ、都が移されたこともありましたが、686年に焼失、奈良時代には後期難波宮が作られましたが、784年、長岡遷都時に施設は解体され、土砂の堆積によって港湾施設としての機能を失っていきました。
題知らずとなっているため不明ですが、この歌を詠んだ伊勢は872年に生まれているので、もしかしたら100年前に廃墟となった都市に対する物悲しいイメージも重ねて詠ったのかもしれません。
■ 豆知識
この歌を読んだ伊勢は三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人で、女性歌人です。
伊勢は情熱的な歌で知られており、藤原仲平・時平兄弟、宇多天皇、宇多天皇の皇子敦慶親王との交際が記録されています。
上の歌も経験と実績から来る恋の駆け引きを歌ったものでしょう。
(好色な藤原時平を諌める歌だったのかもしれませんが・・・。)
敦慶親王との間に中務を生みますが、娘である中務も三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人となります。(中務もまた、多くの男性と交際があったことが知られています。)
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