このたびは(菅家)

短歌 に関する記事

このたびは ぬさもとりあへず 手向山
紅葉の錦 神のまにまに 菅家

■ 訳

今度の旅は、慌てて出発したため御幣(神へのお供え物)も用意できませんでしたが、手向山まできたところ、絹織物のような美しい紅葉が広がっておりました。
これを御幣として捧げますので、お納めください。

■ 解説

「このたびは」はこの度とこの旅を掛けたもの、「幣」はさまざまな色の紙を千切った神様への捧げ物、「手向山」は京都と奈良の間の峠で手向けと掛けた言葉、「まにまに」は御心のままに、といった意味になります。
詩の内容から旅の途中である様子が伺えます。

■ この詩が詠まれた背景

この詩は古今和歌集 第四巻(羇旅歌 420首目)、小倉百人一首の第二十四首目に収録されています。
古今和歌集の題名に「朱雀院のならにおはしましたりける時にたむけ山にてよみける」(朱雀院(宇多上皇)が奈良にお出でになられた際に手向山にて詠んだ)と書かれていることから、昌泰元年(898年)十月に行われた吉野宮滝御幸の際に詠まれたものといわれています。
なお、素性法師も行幸に同行しており、その際の詩が残されています。

道祖神には細切れにした色とりどりの布や紙を幣(ぬさ)として捧げる風習があり、その様子と紅葉を対比しています。

■ 豆知識

菅家とは学問の神様菅原道真のことです。
道真は山陰亭(菅家廊下)と呼ばれる私塾を主宰し、多くの優秀な人材を育成しました。 また、漢学者として知名度が高く、遣渤海使東丹国の使者)からも、まるで白楽天(白居易)のようだ、と称されていました。

吉野宮滝御幸について、扶桑略記(古蹟歌書目録内)に道真が自ら記した記録が残されています。

昌泰の変により、901年に大宰府へ左遷された際、隈麿と紅姫という二人の幼子を連れて榎寺までやって来ました。
この地での生活は苦しく、道真自身、脚気や皮膚病に悩み、胃腸を壊し、さらに隈麿は翌年病に罹り急逝します。
さらにその翌年(903年)には道真も薨逝してしまいました。
道真の死後、朝廷では立て続けに不幸が続いたため、これを道真の祟りと恐れ、罪を赦すと共に贈位を行い、子供たちも流罪を解かれて京に呼び返されています。

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