■ 解説
「みかの原」は瓶原(京都府加茂町傍の木津川周辺)で歌枕、「わきて」は湧けてと分けてを掛けた言葉、「泉河」は泉川(木津川)、また次のいつ見と掛けた言葉、「きとてか」は過去会ったのか?、「恋しかるらむ」は恋しいのだろうか、といった意味になります。
この詩はまだ一度も逢ったことのない人への複雑な想いを詠んだ歌です。
「分けて」と「湧けて(ここでは、思いが湧くという意味と思われます)」、「泉」と「いつ見」もしくは「出み」とそれぞれ掛けていて、さらに「泉」と「湧け」が掛かっている、大変テクニカルな詩といえます。
■ この詩が詠まれた背景
この詩は新古今和歌集 第十一巻(996首目)、小倉百人一首の第二十七首目に収録されています。
当時の恋愛観ですが、平安時代の貴族の女性は親兄弟といえどもみだりに異性に顔を見せてはいけないという習慣があり、部屋にいる時も御簾(みす)や几帳(きちょう)などで顔隠しをしていました。
男性が直接女性の姿を見るためには、許可が出るまで手紙のやり取りを繰り返し、相手からOKがもらえれば直接「逢い」、肉体関係を持つことになります。
そのため、女性側ももちろんですが、男性側は特に直接逢うことに対する複雑な感情が出てくることになります。
余談ですが、平安時代の貴族において、添い遂げたいと思う相手には三日連続で男性が逢いにゆくことになります。(これを三献の儀といいます。)
婚姻関係を結んだ後、数か月逢わなくなると、婚姻関係は白紙となり、実質的な離婚となります。
当時は役所などもありませんでしたので、離婚後、数か月して十分頭が冷えたころに復縁する、なんていうことも珍しくありませんでした。
ちなみに枕草子の作者として有名な清少納言は橘則光と離婚した後も仲が良く、兄妹のように付き合いがあったことが知られています。
■ 豆知識
作者である藤原兼輔は三十六歌仙の一人です。
藤原定方の娘を妻としており、紫式部(藤原為時女)の曽祖父に当たる人物でもあります。
義父である定方とともに、当時の歌壇の中心的な人物で、紀貫之や凡河内躬恒など多くの歌人の後援をしていました。
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