わすれじの(儀同三司母)

短歌 に関する記事

わすれじの 行末までは かたければ
けふをかぎりの 命ともがな 儀同三司母

■ 訳

(私を)生涯決して忘れないでいて欲しいけれど、それは難しいことでしょう。
せめて(こうして愛されている)今日が私の最期の日であれば良いのに。

■ 解説

「わすれじ」は忘れない、「行末まで」は将来的に、「かたければ」は難しいので、「けふをかぎりの」は今日限りの、今日を最後に、「命ともがな」は命であればなぁ、といった意味になります。

■ この詩が詠まれた背景

この詩は新古今和歌集 第十三巻(恋三 1149首目)、小倉百人一首の第五十四首目に収録されています。
題に「中関白かよひそめ侍けるころ」(藤原道隆が(貴子の元へ)通い始めた頃)と書かれています。

■ 豆知識

作者は高階貴子(たかしなのきし)で、女房三十六歌仙の一人です。

名前にある「儀同三司」とは、息子である藤原伊周(ふじわらのこれちか)の官名を指しています。
伊周は父である藤原道隆により、強引に官位を引き上げられたため当時反感を買っており、また当時力をつけてきていた藤原道長との政争に敗れたことや、花山法皇藤原為光の四の君の元へ通う姿を見て、伊周の想い人で同室に居た三の君の元に通っていると勘違いして射掛けてしまい、流刑に遭います。(花山法皇襲撃事件)
このことから一族は没落していきました。
なお、伊周は『本朝麗藻』『本朝文粋』『和漢朗詠集』に多くの秀逸な漢詩文を残しており、同時代の「枕草子」や「栄花物語」には容姿端麗であったとの記述があります。

伊周が誤って射掛けた花山天皇は好色で知られており、馬内侍(うまのないし)を即位式の最中に強姦したり(江談抄)、出家後にも乳母の子である中務(なかつかさ)とその娘である平平子(たいらのひらこ)の親子を寵愛して二人とも子を産ませたり、中宮であった藤原忯子(ふじわらのしし)の腹違いの妹である藤原儼子(ふじわらのたけこ)にも手を出しています。
このように多くの前科があったため、伊周が疑心暗鬼に陥ってしまったのは当然だったのかもしれません。

長女である藤原定子は一条天皇の皇后となりましたが、その際女房として仕えたのが清少納言です。

■ 関連地図


大きな地図で見る

コメント

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。


コメントを書く

お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: