■ 解説
「音に聞く」は噂に聞く、「たかしの浜」は大阪府高石市の大阪湾に面する海岸でかつて白砂青松の景勝地として知られた高師の浜(歌枕)のことを、「あだ波」は寄せては返す波、もしくは変わりやすい人の心を、「かけじ」は(波、あるいは気に)かけることはない、かけまい、「袖の ぬれもこそすれ」は(波、もしくは涙で)袖を濡らさないように、といった意味になります。
■ この詩が詠まれた背景
この詩は金葉和歌集 第八巻(恋歌下 469首目)、小倉百人一首の第七十二首目に収録されています。
題に「堀河院の御時艷書合によめる」「かへし」(康和4年(1102年)に行われた堀河院艶書合の際に詠まれた返歌)とあり、直前に藤原俊忠が詠んだ詩への返歌となります。
■ 豆知識
作者は祐子内親王家紀伊(ゆうしないしんのうけのきい)で、女房三十六歌仙の一人、女流歌人です。
祐子内親王の女房で、母は祐子内親王家小弁(ゆうしないしんのうけのこべん)、すでに散逸してしまった「岩垣沼の中将」という物語の作者です。
一宮紀伊、紀伊君とも呼ばれており、金葉和歌集には一宮紀伊の名義で掲載されています。
「艷書合」とは、貴族が女房に歌を詠み、女房達はその歌に返歌する歌合のことです。
ここで藤原俊忠が詠んだ詩の内容ですが、「人しれぬ 思ありその 浦風に 浪のよるこそ いかまほしけれ」(人知れず貴女の事を想っています。浜辺を吹く風によって立つ波が寄るように、今晩その想いを(貴女に)伝えたいのです。)とあり、今回紹介した返歌の内容をざっくり訳してしまえば、「人をからかうものではないですよ。」といったところでしょうか。
この歌を詠んだとき、藤原俊忠は29歳、祐子内親王家紀伊は70歳でした。
紀伊守であった藤原重経からその名がついたとされていますが、兄であったのか夫であったのか、よく分かっていません。
この歌が詠まれた高師の浜(現在の浜寺公園)は白砂青松の景勝地として知られておりましたが、明治時代、その松を薪や材木として伐採してしまいました。
なお、松のあった場所には大久保利通がこの詩を本歌取りした歌を残しており、惜松碑という碑が建てられています。
詩は「音に聞く 高師の浜の はま松も 世のあだ波は のがれざりけり」(有名な高師の浜に自生する松も、世の中の気まぐれな(人の)心からは逃れられないものだなぁ)という内容です。
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