■ 解説
「和田の原」は大海原(和田が海を意味)、「漕ぎ出てみれば」は漕ぎ出して(あたりを)見れば、「ひさかたの」は雲ゐ(雲居)にかかる枕詞で無理に訳せば天空など空に関する言葉、「雲ゐ(雲居)」は雲のある天、あるいは皇居、宮中を、「まがふ」は見間違う、「沖つ白波」は沖に立つ白波、といった意味になります。
■ この詩が詠まれた背景
この詩は詞花和歌集 第十巻(雜下 382首目)、小倉百人一首の第七十六首目に収録されています。
題に「新院位におはしましゝ時海上遠望といふことをよませ給ひけるによめる」(崇徳天皇がいらっしゃる時、「海上の遠くを見た時」をテーマに詠むように言われたので詠んだ)と書かれています。
雲居には皇居を指す意味もありますので、皇居に浮かぶ雲ともかけたのかもしれません。
■ 豆知識
作者は藤原忠通(ふじわらのただみち)で、父はわずか22歳で権大納言に就いた藤原忠実です。
弟である藤原頼長(ふじわらのよりなが)とは摂政として誰を継がせるかということで忠通と対立していましたが、父、忠実、弟、頼長は保元の乱の首謀者な立場となってしまいます。
結果、父と弟は連座することとなり、このことで摂政家の地位を大きく後退させることになりました。
保元の乱の後、忠通が平氏に肩入れしたことで、平氏台頭の要因となった平治の乱が起こり、武家政権への移行がすすみます。
なお、出家しておきながら俗界から離ることなく、保元の乱において父と弟を追い落とした上、弟の土地を奪い、多大な権力を手に入れた信西(藤原通憲)は、平治の乱の際に斬首されましたが、忠通は動乱期を見事に乗り越え、明治維新まで摂政・関白職を独占し続けました。
忠通という名前の名付け親は大江匡房(小倉百人一首73首目)です。
「法性寺入道前関白太政大臣」の意味は法性寺のお坊さんになる前は関白だったという意味で、忠通は法性寺流という書道の流派を開いた開祖でもあります。
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