■ 解説
「瀬をはやみ」は川の浅瀬が早く流れているので、「岩にせかるる」は岩に堰き止められて、「滝川の」は山の谷間を激しく流れ下る川、「われてもすゑに」は分かれたとしてもその末には、「逢はむとぞ思ふ」はまた一つ(一緒)になる(「思ふ」は決意を意味しているかと思われます)、といった意味になります。
■ この詩が詠まれた背景
この詩は詞花和歌集 第七巻(恋上 229首目)、小倉百人一首の第七十七首目に収録されています。
「題知らず」で選歌されていますが、おそらく保元の乱で島流しにあった際に詠まれた詩ではないでしょうか。
逢いたい相手ですが、重仁親王を産んだ兵衛佐局は同行しているため、藤原聖子ではないかと思われます。
■ 豆知識
作者は崇徳天皇(すとくてんのう)で、鳥羽天皇の第一皇子です。
崇徳天皇はわずかは5歳で即位していますが、父である鳥羽上皇には祖父白河法皇の子である等の噂から疎まれており、近衛天皇に譲位させられます。
上皇になった後も実権は鳥羽上皇が握っており、近衛天皇が死去した後、崇徳上皇は子である重仁親王を次の天皇にしたいと考えていたのですが、近衛天皇は崇徳上皇(に付いた忠実・頼長)に呪い殺された、と言った噂が立ち、それに激怒した鳥羽上皇は、将来的に守仁親王(後の二条天皇)を即位させることを条件に後白河天皇を中継ぎとして即位させます。
ただでさえあらぬ噂で追い詰められている中、後白河天皇は崇徳上皇と父である鳥羽法皇との末期の対面を拒否したり、上皇に対する警戒を強め、検非違使を召集するなど露骨な挑発を繰り返し、これにより精神的に追い詰められた上皇はついに兵を挙げます。(保元の乱)
しかし、直前に平清盛・源義朝・源義康らの奇襲を受けて敗走。
髪を下ろし後白河天皇の前に出頭しましたが許されず流罪となります。
讃岐へ流された崇徳天皇は仏教に傾倒し、五部大乗経の写本を書き上げた後、京の寺に収めて欲しいと朝廷に差し出しましたが、後白河法皇は呪詛がこめられているのではないかとこれを拒否し、送り返された写本をみた崇徳上皇は激しく怒り、送り返された写本に自らの血で「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」と呪いの言葉を書き、生きながら天狗に成り果てたと言われています。
保元の乱は、摂政家内の対立や信西ら貴族の暗躍もあったため、崇徳上皇はそれらに踊らされ、乗せられた可能性もあります。
鳥羽上皇が亡くなってすぐ、「上皇左府同心發軍、欲奉傾国家」(上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す)といった縷言が広まっており、当時の崇徳上皇の状況では、身の潔白を明かすことも難しい状態であったことが記されています。
この歌を元にした落語、崇徳院があります。
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