人もをし(後鳥羽院)

短歌 に関する記事

人もをし 人も恨めし あぢきなく
世を思ふゆゑに 物思ふ身は 後鳥羽院

■ 訳

人をいとおしくも恨めしくも思うんだよ。
世の中の事を考えると、思えば思うほど面白くないって感じるんだ。

■ 解説

「人もをし」は「人も愛し」から人をいとおしいと思ったり、「人も恨めし」は人を恨めしいと思ったり、「あぢきなく」はつまらない、やるせない、「世を思ふゆゑに」は世の中を思い悩むために、「物思ふ」は色々と思い悩む、「身は」は自分自身(倒置法)、といった意味になります。

■ この詩が詠まれた背景

この詩は続後撰和歌集(しょくごせんわかしゅう) 第十七巻(雑歌上 1199首目)、小倉百人一首の第九十九首目に収録されています。
「題しらず」となっているため詳細は不明ですが、後鳥羽天皇が33歳の頃詠んだ歌といわれていますが、この当時の状況は鎌倉幕府に政治権力を奪われており、自らの力の無さを歌ったものかもしれません。
なおこの8年後、後鳥羽上皇は承久の乱を起こすことになります。

■ 豆知識

作者は後鳥羽天皇(ごとばてんのう)で、第82代天皇です。

承久三年、執権である北条義時追討の院政を発行して承久の乱を起こしますが、西園寺公経が幕府にもたらした情報もあって、幕府軍に完敗、隠岐に流されます。 その影響で四歳で皇位に付いていた仲恭天皇は「後鳥羽上皇の子孫の皇位継承は認めない」という幕府側の命から廃され、変わりに守貞親王(後高倉院)の子である後堀河天皇を即位させた後、太上天皇号(上皇)を贈られ院政を執行することになります。

後鳥羽院は史上有数の歌人であり、後に与えた影響は計り知れません。
勅撰和歌集である新古今和歌集は後鳥羽院の命で作られましたが、明月記やその他の記載からその選考に大きく関与したことがわかっています。

刀を打つことを好み、自ら波紋を入れ、それに菊紋をいれました。
現在では「御所焼」「菊御作」と呼ばれています。

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コメント

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百人秀歌にはこの歌と順徳院の『百敷や…』の歌が無いのになぜ小倉百人一首には
2人の歌を入れたのかな?
Posted by 林淳一 at 2022年02月19日 09:46
林様、当ブログへのコメント、誠にありがとうございます。
体調を崩していた為、長らくログインしておらず返信が遅れてしまったこと、大変申し訳ございません。

百人秀歌に載せられていて百人一首に載せられていない人物は一条院皇后宮(藤原定子:清少納言が仕えた一条天皇の皇后で藤原道隆の長女)、源国信(娘が藤原忠通の妻妾)、藤原長方(藤原定家の従兄ですが、妻は信西(藤原通憲)の娘)の三人になるのですが、百人一首を最終的にまとめたのは定家の三男である為家(養父は鎌倉幕府と縁の深い西園寺公経)の独断だったという説があります。

載せられなかった人物は政治的な判断から外したと言えなくもない人選ですが、憶測でしか判断できません。

ただ、現在伝わっている百人一首は時代ごとの並びと移り変わりや百首目を百敷から始まる詩で始める遊び心など、優れた選歌だと思います。
Posted by waka at 2022年04月15日 23:18
じゃあ為家が現在の並び順にしたのですか?
Posted by 林淳一 at 2022年07月20日 17:46
なぜ藤原定子など3人の歌は百人一首から除外されたのですか?
Posted by 林淳一 at 2022年07月20日 17:47
もしかしたら為家じゃない可能性もありますか?
Posted by 林淳一 at 2022年07月20日 17:48
林様、コメントを頂きありがとうございます。

前回コメントに記述した内容はあくまで一説であって、詳細についてはわかりません。
勿論、最終的な判断に定家、為家以外の人物が関わった可能性も完全に否定はできません。

百人一首を選歌する過程において、ただの指運に任せたものではないでしょうが、選歌する際の基準などの資料が残されていない以上、その可能性も完全には否定できません。
選歌した理由を無理やりこじつけることは可能でしょうが、それは正しく回答したとは言えないと思います。

昔ヘミングウェイが「老人と海」という作品を発表した当時、「これは何かの象徴(シンボリズム)ではないか」という批評がされました。
ですが、ヘミングウェイ自身はベレンソンに宛てた手紙に
There isn't any symbolism. The sea is the sea. The old man is an old man. The boy is a boy and the fish is a fish. The shark are all sharks no better and no worse. All the symbolism that people say is shit.
(シンボリズムなんてなにもない。海は海。老人は老人。少年は少年で、魚は魚だ。サメはサメ以上でも以下でもない。人々が言っているシンボリズムは全てたわごとだ。)
と伝えたそうです。

これは第三者が作者の伝えたかった意図を想像して出した答えだからこのような勘違いが起きた、と考えることができますが、それだけではないと思います。

例えば、10年ほど前に自分で書いた日記の内容を今読み返したとして、書いた当時の気持ちを正しく表現できるでしょうか。
当の本人ですらその内容を正しく表現できないというのであれば、第三者がそれを正しく推し量ることは不可能でしょう。

要するに、分からないものは分からない、当時の状況から色々と想像することはできるが正解である保証はない、ということになります。
Posted by waka at 2022年07月22日 20:30
もしかしたら定家の可能性もあるのですが?
Posted by 林淳一 at 2022年07月24日 09:08
後鳥羽院という名前は定家がなくなった後に贈られた贈り名らしいです
Posted by 林淳一 at 2022年07月24日 09:18
それでも僕はこれから百人一首の歌を100首や100人の作者覚えたり
研究をしたりもします
Posted by 林淳一 at 2022年07月24日 09:20
でも為家が現在の小倉百人一首にした説を信じます
Posted by 林淳一 at 2022年07月24日 09:48
林様、多くのコメントを頂きありがとうございます。
他に合計20件ほどコメントを頂いていましたが、過去既にお答えしたコメントと重複した内容であったり、答えようの無い質問も多かったため、当コメント欄に記述いただいた内容のみ答えさせていただきます。
最近忙しいので、今後質問される場合はLINEのような短文の連投ではなく、投稿前に一度文章をまとめ、内容を一つに絞って質問頂けるようお願いします。

> もしかしたら定家の可能性も
> でも為家が現在の小倉百人一首にした説を

百人秀歌は現在4種の写本が知られており、そのうち冷泉家に伝わる百人秀歌には、江戸時代中期(1750年頃)の冷泉為村が注釈で百人秀歌の選者は定家、百人一首の選者は為家であると記しています。

定家が百人一首を選歌した約500年ほど後の資料で、1951年に発見された百人秀歌の200年ほど前に、既に百人秀歌の存在が知られていたということで大変貴重な資料ですが、仮にこの資料を元にするなら、宇都宮頼綱に依頼され定家が直筆で書いたとされる小倉色紙(小倉山荘色紙和歌)は百人一首ではなく百人秀歌の方だった、ということになります。
ちなみに小倉色紙の内容については、集古十種に蒐集当時の写しが残されています。(245コマ目以降です。)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992509

ですが、上記の小倉色紙の写しを見ればわかりますが、257コマ目には「百敷や」つまり百人秀歌には載っていないはずの順徳院の詩が載っており、為村による記述と矛盾しています。
また、冷泉家百人秀歌における偏り、具体的には冷泉流歌道の正統性を主張するような記述が含まれていたことから、真偽に疑問の余地が生じています。
(為家の3人の子が家領相続の際に争い合った結果、二条派、京極派、冷泉派に分派しており、冷泉派はその一派となります。)

なお、小倉色紙は当時から非常に高い値段で取引されていたようで(真偽不明ですが1枚1000両程:現在の価格で5000万〜1億円程)、贋作も多数出回っていたことから、「百敷や」の小倉色紙は贋作であり、それが誤って集古十種に蒐集された可能性は十分考えられます。

まだ未発見の資料には真相が眠っているかもしれませんね。


> 後鳥羽院という名前は定家がなくなった後

後鳥羽院は1239年3月28日に一度、顕徳院の諡号が贈られ、1242年7月、承久の乱で倒幕軍を破った北条泰時が亡くなったのを機に後鳥羽院を追号されたようですね。
(定家が亡くなったのは1241年9月26日ですので、約1年後です。)
ちなみに小倉色紙にはご覧の通り名前が書かれていないため、百人一首における名前は後年付けられたものです。


> それでも僕はこれから百人一首の歌を100首や100人の作者覚えたり研究をしたりもします
私は趣味でやっているだけで別に研究者でも何でもありませんが、最初に結論を決めてから当てはまる事実のみ貼り付けていくような、ツギハギだらけのハリボテで中身のない研究者にはならないでくださいね。
当時の資料や遺構、歴史的背景などを知り、集まった数々の証拠が不自然なく浮かび上がらせたものが研究成果といえるのではないでしょうか。

詩や作者を覚えるだけでなく、洋の東西を問わず様々な本を読んだり、実際に現地へ足を運んで目で見ることで初めて知ることができることはたくさんあると思います。
Posted by waka at 2022年07月25日 00:47
じゃあ百人一首はいつ成立したのですか? 1235年じゃないのですか?
Posted by 林淳一 at 2022年07月28日 15:56
林様、多くのコメントを頂きありがとうございます。

ですが、前回記した内容(「今後質問される場合はLINEのような短文の連投ではなく、投稿前に一度文章をまとめ、内容を一つに絞って」)を無視した形で合計17件もの短文コメントを各ページにバラバラに投稿されたのはとても残念です。

正直今回の件で、当方がこれまで回答してきたコメントを、林様が本当に読んで頂けたのかも疑問に思っています。
そのため、今後頂いたコメントに対して返信は致しませんので、ご了承ください。


百人一首の成立時期は諸説あり正確にはわかっていません。
明月記の記述内容から、文暦2年5月27日(1235年6月14日)に宇都宮頼綱に依頼されて記した小倉色紙が百人一首の成立とされていますが、これは百人秀歌の事を指している可能性が高そうだとも考えられており、現在伝わっている百人一首が何時成立したのか、正確な資料は見つかっていません。

小倉色紙は定家の死後250年程の間、連歌師である宗祇が百人一首抄を記すまで、その存在自体が一般に知られておらず、少なくとも室町時代にポルトガルからカルタが伝来し、百人一首が歌かるたの形で庶民の間でブームになるまで知名度は低いままでした。
Posted by waka at 2022年07月31日 15:09

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