あめつつ、おとめに(伊須氣余理比賣、大久米命)

旋頭歌 に関する記事

ここに大久米命、天皇の命をもちて、
その伊須氣余理比賣にのれるの時に、
その大久米命のさけるとめを見て
あやしとおもひて歌曰く、
「あめつつ ちどりましとと などさけるとめ」
とうたひければ、大久米命、答え歌ひてぞ、
「をとめに ただにあわむと わかさけるとめ」 伊須氣余理比賣、大久米命

■ 訳

大久米命(おおくめのみこと)が天皇の命を持って、伊須氣余理比賣(いすけよりひめ)の元に赴いた時、大久米命の目の周りにある入墨を見て不思議に思い、歌を詠みました。
「貴方はなぜ、アマドリ(アマツバメ)、セキレイチドリ、鵐(シトド、巫鳥(ホオジロアオジノジコなどの総称))のような鋭い(怖い)入れ墨を目元にいれていらっしゃるの?」
大久米命はそれに歌で答えます。
「お嬢様に直接お会いして、(勅命を持ってきた私が貴女に失礼が無い(好かれることのない)ように)目元に鋭い入れ墨をしてきたのですよ。」

■ 解説

「のれるの(告れるの)」は告げる、「さけるとめ(黥ける利目)」は目の周りに施された刺青、「あめつつ」はアマドリ、「ちどり」は千鳥、「ましとと」はシトド、「わか」(我が)は私、といった意味になります。

■ この詩が詠まれた背景

この詩は古事記において神武天皇が東征中、高佐士野(たかさじの)にやってきた際、国津神大物主の娘である七人の少女が野遊びしており、神武天皇がその長女に求婚する話の中で詠まれています。
神武天皇は姫に想いを伝えるため、大久米命を遣いに出し、その際に詠みあった歌(旋頭歌)となります。
ちなみに、旋頭歌は五七七を2回繰り返した6句で構成され、多くの場合、上三句と下三句で詠み人が異なります。

■ 豆知識
魏志倭人伝の記録によれば、3世紀頃の男子はすべて入れ墨をしていたとの記述が残されています。
神武天皇の誕生が紀元前660年頃とされていますので、東征が行われたのが10〜20年後と仮定すれば紀元前640年頃となりますが、この頃だとすれば、入れ墨があまりにも一般的であったと想像されるため、疑問を感じる可能性は低く、会話が成立しません。
西暦399年、皇子の反乱に加担した阿曇野連浜子に対して履中天皇が入れ墨を施した例や部民制において飼部のものは入れ墨をしていたといった資料残されており、古事記が書かれたのは西暦712年頃となりますので、入れ墨に対する考え方としては、このような刑罰や特殊技能者に関する対するものに近かったと考えられます。

このやり取りを行う前段階で、神武天皇は「加都賀都母 伊夜佐岐陀弓流 延袁斯麻加牟」(とりあえず一番先頭にいる長女を娶ろうか)と詠んでおり、妥協的な意味の歌となってます。
天津神(神武天皇)と国津神(大物主)の双方の血を引いた子孫を残すため、という儀式的な意味があり、すでに吾平津姫(あひらつひめ)と子を儲けていた神武天皇自身は気乗りしていなかったのかもしれません。
なお、吾平津姫の子である手研耳命(たぎしみみのみこと)は、後に皇位を争って反乱を起こしています。

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