筑摩江や(石田三成)

辞世の句 に関する記事

筑摩江や 芦間に灯す かがり火と
ともに消えゆく 我が身なりけり 石田三成

■ 訳

筑摩江を照らす、葦の間から垣間見える篝火。
明日の明け方には消されるあの篝火は、私の生涯を掛けて忠誠を尽くした豊臣家の命運のようだ。

■ 解説

「筑摩江」は琵琶湖にある入江で歌枕、「芦間」は葦の間、「ともに消えゆく」は篝火、自分の人生、(および、豊臣政権をそれぞれ意味しているとされています)、といった意味になります。

■ この詩が詠まれた背景

この詩は石田三成の辞世の句です。
関ヶ原の戦いで敗走した三成は出身地である近江国に逃れますが、その際に詠んだものと思われます。

■ 豆知識

石田三成は生真面目でしたが頭が固く、自らの意見を押し通すため虚偽の発言をして同僚を陥れるなど、人から好かれる性格ではありませんでした。
他の武将とのコネも殆どなく、一番の友人であった大谷吉継からもその人徳のなさを指摘をされていましたが、その性格が遠因となって豊臣家を結果的に二つに分けてしまい、関ヶ原の戦いにおいて徳川家に天下を取られる結果となりました。

■ 関連地図

コメント

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歴史にifはありませんが、もしも石田三成の性格が円満で「豊臣家を結果的に二つに分け」なくても、またそもそも石田三成がいなかったとしても、より時間はかかることになるでしょうが、結局は徳川の天下になったと思います。
Posted by at 2019年07月27日 20:50
梟様、コメントありがとうございます。
当ブログは滅多にコメントを頂けないのでとても嬉しいです。

梟様のご指摘通り、たしかにその可能性は高かったと思います。

家康は秀吉の死後、直ぐに無断で諸大名の屋敷に訪問して連絡を取り合ったり、有力大名と多数の縁組を行って同盟関係を強化して政治力を急激に拡大している点から、野心は明らかですし、そもそもどちらの行為も当時の法に反する行為です。
それだけ秀吉亡き後、家康が他の大老達を格下に見ていたという証拠だと思います。
(仮に秀吉が元気な頃こんな事をしでかしたのなら、即、全力で徳川は潰されていたかもしれません。)

有名な方広寺の鐘の銘文を書いた当人である文英清韓は豊臣家滅亡後、その銘文を呪詛だと断じた林羅山の執り成しで助命されていますので、この件もやはり政治力が十分に強まった家康が火種をわざと大きくして豊臣家を潰しにかかった結果だと思います。

豊臣秀頼は体格も立派で聖人君子であったそうですから、家康は次の代には任せられないという焦りもあったのかもしれません。
ですので、もし仮に家康が亡くなる1616年まで豊臣家が存続していれば、案外その後は江戸幕府のように長く続いた可能性も無きにしも非ずです。
(政情が安定していたかどうかは疑問ですが。)


三成は北条の忍城を水攻めする際に、無茶な工期で作業を進めた挙句、堤を壊されて事故を起こし自軍に犠牲者を出したり、家康に付いて会津征伐に同行した細川忠興の妻、ガラシャを人質に取ろうとして自害に追い込み、さらにその結果に怖気づいて他の有力武将の親族を人質に取ることができなくなったり、デスクワークのプロではあるけど現場に立つと結果が出せないタイプだったのではないでしょうか。

反徳川派で人徳があり仲介役として豊臣家を支えていた前田利家が亡くなった途端に、かつて秀吉の元で共に戦った仲間であったはずの福島正則や加藤清正らに襲撃され、そのまま豊臣家を裏切って徳川方に付いたことから、少なくとも人心をつかむことは得意ではなかったのでしょう。

佐和山城の城主になっていますが、元々は豊臣秀次の領地を分け与えられたもので、三成が秀次に謀反の疑いありと秀吉に告げ口した事で自害に追い込んだというとんでもない話まであります。
後の創作の可能性が高いと思いますが、当時そういう見方をされていた、というのは事実だったのだと思います。

勿論、三献の茶における気配りの話や税を免除して土地の農民に慕われていた話、大谷刑部との友情の話、秀吉に対する忠義の厚さなど、実際には好人物であったという話も有りますが、単純に徳川拠りの史料だから悪く書かれただけだと言いきれない人物だったのではないかと思います。

三成に利家のような人徳があれば、家康は政治力を発揮できず、五大老のまま納まっていた可能性もあったかもしれません。
Posted by waka at 2019年07月28日 00:37

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