■ 解説
「妹背の山」は妹背山(和歌山県伊都郡かつらぎ町にある山、妹山、背山の総称で歌枕)、「なかなれば」は中と仲を掛けたもの、「吉野」は吉野川(現在の紀ノ川を指します)、「かはとだに身じ」は川(吉野川)と彼は(貴方(ここでは則光))をそれぞれ意味します。
この詩は古今和歌集 巻十五(恋五 828首目)「流れては 妹背の山の なかにおつる よしのの河の よしや世中」の本歌取りです。
■ この詩が詠まれた背景
この詩は枕草子に収録されています。
枕草子には些細なことから則光とけんかをしてしまった際に、則光から「便なき事侍るとも、ちぎり聞えし事は捨て給はで、よそにてもさぞなどは見給へ」(音信不通であっても、(貴女との仲は)運命の相手だと世間では噂されていて(その噂を)壊したくないので、もし外で見かけたならそのように(仲良く)接してね。)という文が送られてきたため、返事として出したとあります。
■ 豆知識
作者は清少納言です。
清少納言と橘則光の間は「いもうと(妹)」「せうと(兄)」と周りから呼ばれており、とても仲が良いことで有名でした。
その呼び名は時の天皇である一条天皇にまで知られており、宮中で知らぬ者はいないほどでした。
則光は肉体派、実直な性格で、和歌や風流を嗜むことは苦手でした。
特に和歌は大嫌いで「絶交したいときだけ送ること」と普段から言っていたようです。
通常和歌が送られた場合、返事(返歌)を送ることが習わしになっていたのですが、この詩が送られた後、則光から返事が返ってくることはありませんでした。
この詩を送った清少納言は、もしかしたら則光が苦手な和歌を克服して返歌を返してくれることをちょっとだけ期待していたのかもしれません。
枕草子にはこの段以降、則光に関することはほとんど記載されていません。(枕草子は時系列順に書かれているわけではありませんが。)
則光が遠江介(従六位上相当)となり疎遠になってしまったことも原因の一つだと考えられます。
ちなみに、前回則光が詠んだ和歌はこの出来事からずっと後のことです。
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