空蝉の(和宮親子内親王)

短歌 に関する記事

空蝉の 唐織衣 何かせむ
綾も錦も 君ありてこそ 和宮親子内親王

■ 訳

貴方がいないのに織物が一体何の役に立ちましょうか。
(素晴らしい)綾織物も(色鮮やかな)絹織物も貴方が居てこそのものなのに。

■ 解説

「空蝉の(うつせみの)」はこの世、この世の人(人の世に掛る枕詞としても用いられます)、「唐織衣(からをりごろも)」は高価な着物(ここでは西陣織)、「何かせむ」は〜しても何の役にも立たない、「綾(あや)」は綾織、「錦(にしき)」は色糸を使った鮮やかな着物、をそれぞれ意味しています。

■ この詩が詠まれた背景

この詩は徳川家茂の妻である和宮親子内親王が詠まれた詩です。
長州征伐のため上洛していた家茂は、妻である和宮内親王にお土産には何がいいか尋ね、和宮内親王は西陣織がいいとお願いします。
ところが家茂はわずか21歳という若さで大阪城で病死、西陣織は形見として和宮内親王に届けられます。
形見の西陣織を受け取った和宮内親王は悲しみに暮れ、この和歌を添えて西陣織を三縁山広度院増上寺に奉納します。
西陣織は後に袈裟として仕立て上げられ、「空蝉の袈裟」として伝わっています。

■ 豆知識

作者は和宮親子内親王(かずのみやちかこないしんのう)です。
歴代徳川将軍家において、もっとも時代に翻弄された将軍とも言われる徳川家茂(とくがわいえもち)の妻であり、孝明天皇の異母妹に当たります。

家茂は和宮内親王一筋で、側室を一切持ちませんでした。
裏で政治的な意図があったにしても、家茂が和宮内親王を本当に愛していたであろうことが偲ばれます。

和宮内親王はわずか32歳で亡くなっています。
家茂の死から11年後、明治10年9月2日の事でした。
和宮内親王は家茂と共に、この和歌を奉納した増上寺に埋葬されています。

■ 関連地図

コメント

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公武合体の政略結婚で結ばれた仲とは言え、
典型的な武家貴公子家茂と京人形の様な親子内親王とは
お互いに深い愛情が育まれていったのでしょう。
第二次長州戦争の最中、大坂城中で若くして逝去した
夫を偲ぶ痛切な気持ちが籠められた一首ですね。
Posted by narahimuro at 2018年01月14日 08:26
narahimuroさん、コメントいただきありがとうございます。
いただいたコメントを1カ月近くも確認できず申し訳ございませんでした。

家茂は前将軍の家定がろくに仕事をしなかった影響で日米修好通商条約に署名させられたり、長州藩のせいで列強にジリ貧状況のなか賠償金を支払わされたり、神戸の開港を要求されたり、慶喜が適当なことを言ったせいで家茂がとばっちりを受けて朝廷の評価が駄々下がったり、心労極まる状況だったのだろうと思われます。

しかもまだ二十歳ですからね。
いくら家茂公に才能があっても相当の場数を踏んでいないと難しい局面ばかりだったと思います。

和宮親子内親王が詠まれた歌は全部で三首あるそうです。
他に、

着るとても 今は甲斐なき 唐ごろも 綾も錦も君ありてこそ

三瀬川 世にしがらみの なかりせば 君諸共に 渡たらしものを

があるようです。
Posted by waka at 2018年02月09日 00:10

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