■ 解説
「熟田津(にきたつ)」は現在の愛媛県松山市古三津町付近にあったとされる港で歌枕、「月待てば」は月の出を待てば、「かなひぬ」はちょうど、ぴったり合う、「今は」は今を置いて他に無い、今こそ、「漕ぎ出でな」はさぁ漕ぎ出そう(勧誘)、をそれぞれ意味します。
■ この詩が詠まれた背景
この詩は万葉集 第一巻 (雑歌 8首目)に選歌されています。
題に「後岡本宮御宇天皇代 天豊財重日足姫天皇位後即位後岡本宮」(後岡本宮で治世を行われている天皇の時代 斉明天皇即位 後岡本宮)とあります。
この詩は当時友好国であった百済が新羅、唐の連合軍に攻められ、その救援に向かう際に詠まれた詩とされています。
斉明天皇はすでに高齢でしたが、この戦いのために朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや:現在の福岡県朝倉市内)に遷都しています。
■ 豆知識
作者は額田王(ぬかたのおおきみ)です。
岡本宮(飛鳥岡本宮)は飛鳥京跡にあったとされる舒明天皇が住んでいた宮殿ですが、火事で焼失しています。
後に舒明天皇の妻であった斉明天皇が即位して同じ場所に建てたとされており、この宮殿を後飛鳥岡本宮と呼びます。(この宮殿もまた火事で焼失しています。)
倭国・百済連合軍と唐・新羅連合軍の戦いは白村江の戦いと呼び、倭国・百済連合軍は大敗しています。
この敗北は国内の組織改革を一変させるほどの大事件でした。
唐・新羅の侵略を恐れ、多くの防人や古代山城の防衛砦が置かれたのもこのすぐ後の事です。
この事件から約40年後、大宝律令が制定されて倭国は日本という国号を名乗ることになります。
この詩の「今は漕ぎ出でな」の部分は万葉仮名で「今者許藝乞菜」と書かれてます。
「者」は「は」、「許」は「こ」、「菜」は「な」で、ここまでは理解できるのですが、「藝」は「ぎい」ではなく「ぎ」、「乞」は「で」でなく「こ(こふ、こそ)」もしくは「き(つ)」のような気がします。
「乞」でなく「弖」なら「で」と読みことができるのですが、このように訳された理由をご存知の方、コメントをいただければ幸いです。
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