咲く梅の(武田耕雲斎)

辞世の句 に関する記事

咲く梅の 花ははかなく 散るとても
香りは君が 袖にうつらん 武田耕雲斎

■ 訳

梅の花は散ったとしてもその残り香はあなたの袖に移ることでしょう。

■ 解説

そのままでも読めるため解説は割愛します。
状況から意訳すれば、「私が死んでもその遺志は残る」となるかと思います。

■ この詩が詠まれた背景

この詩は天狗党の党首である武田耕雲斎が辞世として詠んだ詩です。
天狗党とは江戸時代末期、水戸藩内にあった尊王攘夷派のグループです。
天狗党は朝廷へ尊皇攘夷の志を水戸藩主であった徳川斉昭(とくがわなりあき)の息子、一橋慶喜(後の第15代将軍徳川慶喜)を通じて朝廷に伝えるため西上しますが、慶喜が幕府軍を率いて天狗党討伐に来たことから断念、降伏します。
道中で行った凶行(放火、殺戮、略奪など)が仇となり、参加メンバーの多くは処刑されることになります。

■ 豆知識

作者は武田耕雲斎で、水戸藩の家老、天狗党の首領です。
幕末の水戸藩は保守派と過激派に分かれており、天狗党は過激尊王攘夷派です。
筑波山で挙兵した天狗党のグループの一つである筑波勢が軍資金目的などで宿場町を襲い無関係な人たちを殺傷、放火するなどの凶行を行っており、天狗党=暴徒集団と認識されます。
武田耕雲斎は大発勢と呼ばれるグループに属していて、凶行に直接関与したわけではありませんでしたが、筑波勢と後に合流したことや、保守派である諸生党の暗躍により同じ暴徒とみなされ、幕府の討伐対象となります。
(ちなみに武田耕雲斎が首領となった後は、凶行が行われないよう、ある程度規律が守られるようになっていました。)

天狗党が京に上るため西上した理由は、慶喜を通じて朝廷に尊皇攘夷の志を訴えることでしたが、慶喜は自ら朝廷に訴え出て幕府軍を率い、天狗党討伐に向かいます。
また幕府による包囲網も敷かれ、総攻撃の通告を聞いた天狗党はついに武装解除して降伏します。
投降した天狗党員828名のうち、352名が処刑されており、武田耕雲斎は元治2年2月4日(1865年3月1日)、福井県敦賀市にある來迎寺境内で処刑されました。

諸生党と天狗党残党の対立は明治維新以降も続き、武田耕雲斎の孫である武田金次郎を筆頭にした天狗党残党による諸生党への凄惨な私刑が行われ続けました。

■ 関連地図

來迎寺の場所を当初鎌倉市と記載していましたが、敦賀市の誤りでした。
ご指摘くださいました伯道様、本当にありがとうございました。

コメント

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。


処刑は敦賀の來迎寺ですね。
https://www.fukureki.com/turuga/raigou.html
Posted by 伯道 at 2020年05月02日 16:09
伯道様。
大変貴重な情報をコメントいただき、ありがとうございます。
早速ですが、間違った情報について修正させて頂きました。

更新頻度も低く閑散としたブログなので、こういったご指摘を頂けるととても嬉しいです。
今後ももし機会があればコメントを頂けますと幸いです。

この度は本当にありがとうございました。
Posted by waka at 2020年05月02日 18:40

コメントを書く

お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: