香具山は(中大兄)

長歌 に関する記事

香具山は 畝傍を愛しと
耳成と 相争ひき
神代より かくにあるらし
古も しかにあれこそ
うつせみも 妻を争ふらしき 中大兄

■ 訳

(過去に)天香久山は愛しいと思う畝傍山を巡って、耳成山と争い合ったそうだ。
神様が居た頃からそうなのだから、昔も今も同じように妻を巡って争うのだろう。

■ 解説

「香具山」、「畝傍」、「耳成」は大和三山(天香久山、畝傍山、耳成山)、「神代」は神様がいた頃、「かくにある」は、「しかに(然に )あれ」はそのようである、「うつせみ」は現世、この世、「らしき」は〜だろう、をそれぞれ意味します。

■ この詩が詠まれた背景

この詩は万葉集 (第一巻 13首目)に収録されています。
題に「中大兄 近江宮御宇天皇 三山歌」(中大兄皇子 近江宮で治世を行っていた期間の天皇 三山歌)とあります。
題から、天智天皇の時期に詠まれたとするのであれば、白村江の戦いの後の期間となる667年旧暦3月19日〜672年1月7日までの間となりますが、実際には百済救援のため船に乗っていた時(白村江の戦いに向かう途中)に詠まれた詩だったようです。
なお、この詩には反歌が2首詠まれています。

「畝傍を愛しと」の部分は万葉仮名で「雲根火雄男志等」と書かれていることから、「畝傍山」を男らしい「雄々し」(畝傍山が男性神)と読ませる解釈があります。

この詩は三角関係を詠んだ詩ですが、中大兄皇子は弟である大海人皇子の妻、額田王を奪い妃としたのではないか、と古くから言われており、その事を大和三山の伝説に照らし合わせたのでは、という説は古くからあります。
そのように解釈した場合、天香久山は額田王、耳成山は袖にされた大海人皇子、畝傍山は中大兄皇子ということになります。

■ 豆知識

作者は天智天皇で第38代天皇です。
天皇として即位していた期間はわずか4年ですが、母である斉明天皇の頃、皇太子時代から実権を握っていました。
天智天皇は次代天皇として息子である弘文天皇を指名しますが、この事が後に大海人皇子による壬申の乱を引き起こす原因となってしまいます。

中大兄皇子と言えば、大化の改新の主導者として有名です。
聖徳太子亡き後抑えが利かなくなり、次代天皇を単独で決められるほど多大な権力を持っていた豪族、蘇我蝦夷、蘇我入鹿親子を一掃するため、中臣鎌足と共に蘇我入鹿を殺害、入鹿の父である蘇我蝦夷は館に火を放ち自殺します。(乙巳の変
このクーデター以降の大化年代に行われた政治改革を大化の改新と呼びますが、諸説あり、現在では大化以降のより長い期間を指すとする説もあります。

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