田一枚(松尾芭蕉)

俳句 に関する記事

田一枚 植て立去る 柳かな 松尾芭蕉

■ 訳

田んぼを一反、植え終わったお百姓さんがどこかに行ってしまったよ。
柳はそれをずっと見守っていたんだなぁ。

■ 解説

「田一枚」は田んぼ一反(現在の単位では約1,000u)、「かな」は〜だなぁ(詠嘆)、をそれぞれ意味します。
季語は「田一枚 植て」で夏です。(柳は春の季語に当たりますが、ここでは季語として読みません。)

■ この詩が詠まれた背景

この詩はおくのほそ道、「殺生岩・蘆野」の中で紹介されている詩です。
前回の旅の続きで、殺生石の見物に向かった芭蕉が残した句です。
おくのほそ道には、「又、清水ながるゝの柳は蘆野の里にありて田の畔に残る。此所の郡守戸部某の此柳みせばやなど、折々にの給ひ聞え給ふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日此柳のかげにこそ立より侍つれ。」(また、(西行法師の和歌に登場する)清水流るる柳は芦野の里(栃木県那須郡那須町芦野)にあり、田んぼの畔に残っている。領主である戸部(こほう)なにがしさんが、機会があるたびにこの柳を芭蕉さんにお見せしたいと言っていたので、いったいどれほどのものかと思いを馳せていたのだが、今日ついに柳の下に立つことができた。)とあります。

■ 豆知識

作者は松尾芭蕉です。

この俳句の「立去」ったのは誰なのか、現在でも議論されています。
松尾芭蕉が田んぼの手伝いをした後立ち去ったのか、田植えをしていたお百姓が立ち去ったのか、それとも柳を擬人化して詠んだものなのか、分かっていません。
上の訳では立ち去ったのを農夫として読んでいますが、例えば「立去る」を柳とすれば、(柳のことが)頭の中から立ち去った、つまり、すっかり忘れていたとなり、この俳句の訳は
「田んぼを一枚植えている間に(かの有名な)柳のことをすっかり忘れてしまったよ。」
といった感じになります。
何をメインに据え置くかで状況が変わるため、簡単に見える俳句ですが理解するのは困難です。

「郡守戸部某」は江戸時代の旗本である蘆野資俊(あしのすけとし)の事です。
西行法師の「清水ながるゝの柳」の和歌は新古今和歌集 第三巻(夏歌 262首目)に「題知らず」として「みちのべにしみづながるゝやなぎかげしばしとてこそたちとまりつれ」が選歌されています。
この和歌の詳しい説明は次回行います。

■ 関連地図

コメント

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田一枚植えて立ち去る柳かな

この柳は、かつて西行がその木陰にしばしのつもりで立ち止まり、そして立ち去った柳なのだなあ。

そして「しばし」のつもりが、とうとう田を一枚植えるくらいの時間になってしまったのだろうか?
Posted by 八島 守 at 2019年08月10日 15:56
「清水ながるゝの柳は・・・田の畔に残る。」

言ってることが何か変ですね、西行の歌の「道の辺清水」はどこに行っちゃったんでしょう。

実は遊行柳は、温泉神社の参道上の南側にありますが、

「道の辺清水」は、参道の北側の参道からちょっと離れたところに清水の名残があるようです。


Posted by 八島 守 at 2019年08月10日 16:19
与謝蕪村
柳散り(遊行柳)清水涸れ石ところどころ(道の辺清水)

これは「道の辺清水」中心の俳句でしょう。

このように西行の歌ゆかりの歌枕は、本来は「道の辺清水」なんです。

柳などという植物は、歌枕にはなれませんよね。

Posted by 八島 守 at 2019年08月10日 16:39
昔から「道の辺清水」には、よく「川沿い柳」の柳並木が植えられており、西行の歌の柳も「川沿い柳」の柳と思われます。
Posted by 八島 守 at 2019年08月10日 16:55
>八島 守様

コメントを頂き、ありがとうございます。
普段閑散として寂しい当ブログにコメントを頂けてとても嬉しいです。

> 田一枚植えて立ち去る柳かな の句について
松尾芭蕉が且つての西行法師の旅の姿に思いを寄せた句という形で詠まれたのですね。
「しばし」が「田を一枚植えるくらいの時間になってしまったのだろうか?」というのが、実は芭蕉の姿ではなく旅の途中の西行法師の視点であったというのはとても面白いですし得心が行きます。
何かの本だか番組だかで見た記憶ですと、田植えする早乙女に視点を移した姿という説明だったように記憶していますが、やはり本人でないとこの句を理解するのはとても難しいですね。

> 西行の歌の「道の辺清水」はどこに行っちゃったんでしょう。
> 柳などという植物は、歌枕にはなれませんよね。
この辺りは何とも言えないところかと思います。
おくのほそ道には「此所の郡守戸部某の此柳みせばやなど、折々にの給ひ聞え給ふを」とありますので、戸部某さんの勧めで柳を見ることが目的であったため、この地が歌枕だという認識もあったかどうか分からないです。

> 昔から「道の辺清水」には、よく「川沿い柳」の柳並木が植えられており
八島 守様は土地勘をお持ちなのですね。
私も当ブログで色々と偉そうなことを書いていますが、現地に赴ける機会がほぼ皆無なので、とても羨ましいです。
「此柳みせばや」と戸部某さんが言ったのも昔から「川沿い柳」が植えられていたからなのかもしれませんね。

この度は本当に貴重なコメント、ありがとうございました。
今後ともお気軽にコメントを頂けるととても嬉しいです。
Posted by waka at 2019年08月10日 17:06
「清水ながるゝの柳は・・・田の畔に残る。」
言ってることが何か変ですね、西行の歌の「道の辺清水」はどこに行っちゃったんでしょう。

これは、「清水ながるゝの柳」と言ってるから、柳のそばに川が流れていなければならないのに、
「田の畔に残る」と、柳のそばに川が流れてないじゃないかと、疑問に思ったことを書いてるわけです。

それで、那須町の博物館みたいなところにメールして、
たくさん史料を送ってもらいました。それで「道の辺清水」の在った場所がわかりました。



Posted by 八島 守 at 2019年08月10日 19:16
>八島 守様

>「田の畔に残る」と、柳のそばに川が流れてないじゃないかと、疑問に思ったことを書いてるわけです。
>それで、那須町の博物館みたいなところにメールして、
>たくさん史料を送ってもらいました。それで「道の辺清水」の在った場所がわかりました。

ご依頼頂いた通り、先ほど頂いたコメントは非表示に設定していますが、「道の辺清水」はやはり八島 守様のご指摘通り、現在知られている位置とは違うのですね。

弟子である戸部某さんがなぜ師匠に熱烈にアピールしていたのかは分かりませんが、もし違うことを知ったうえで松尾芭蕉がその地を訪れていたのなら、その場所を「立去る」芭蕉の心境がまた変わってきそうな気がします。

この度は沢山の大変興味深いコメントを頂き、ありがとうございました。
Posted by waka at 2019年08月10日 21:37

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