白波の(川嶋皇子)

短歌 に関する記事

白波の 浜松が枝の 手向けぐさ
幾代までにか 年の経ぬらむ 川嶋皇子

■ 訳

手向けとされたのか、結ばれた枝のある松の木の生えた崖に白い波が当たっている。
(あれは)いったいどれほどまで年を重ねたものなのだろうか。

■ 解説

「白波の(しらなみの)」は白く立つ波("白波の"で「よる」、「かへる」、「しろ」、「うち」などに掛る枕詞にもなりますが、今回は枕詞として詠んでいません。)、「手向けぐさ」は手向けとする品、をそれぞれ意味します。
「手向けぐさ」を今回は昔の風習である”結び”と掛けて訳しましたが、松の枝に掛けたお供え物かもしれません。

■ この詩が詠まれた背景

この詩は万葉集 第一巻(雜歌 34首目)、第九巻(雜歌 1716首目)に収録されています。
題詞に「幸于紀伊國時川嶋皇子御作歌 或云山上臣憶良作」(紀伊国(現在の和歌山県と三重県南部周辺)に行った際に川嶋皇子が作られた詩(ある書では山上憶良作が作ったという))とあります。
また、左注に「日本紀曰朱鳥四年庚寅秋九月天皇幸紀伊國也」(日本書紀では朱鳥四年庚寅(690年)秋、九月、天皇が紀伊国に御幸された)とあります。 重出している1716首目の題詞には「山上歌一首」とあり、山上憶良作とされています。
(当サイトでは川島皇子作として紹介します。)

「松が枝の 手向けぐさ」という表現から、謀反の計画を立てたとして密告され、処刑された有間皇子を彷彿とさせます。
有間皇子は紀国に護送される途中で松の枝を結び、無実と安全を祈願したそうです。

■ 豆知識

作者は川島皇子(かわしまのみこ:河嶋皇子とも記されます)で、天智天皇の第二皇子です。
吉野の盟約を結んだ6人の皇子の一人で、継承順位としては四位でした。
天武天皇の死後、天武天皇の第三子である大津皇子が謀反の疑いがあるとして処刑されますが、この時、大津皇子の親友であった川島皇子が密告したことで謀反に失敗したとされています。

もう少しその頃の時代背景を調べてみると、
天武15年(朱鳥元年:686年)10月、大津皇子を謀反の罪で殺害。
朱鳥2年(689年)4月13日、草壁皇子が逝去。
朱鳥4年(690年)元旦、天武天皇の妻であった持統天皇が吉野の盟約を無視して即位。
朱鳥4年(690年)7月、高市皇子が太政大臣となる。
朱鳥4年(690年)9月、紀伊国に行幸。本和歌が詠まれる。
という流れになっています。

■ 関連地図

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