■ 解説
「朽ちもせぬ その名ばかり」は残っているのはその名だけ、「枯野の薄(かれののすすき)」は草木の枯れ果てた野に生えるススキ、をそれぞれ意味します。
ちなみに俳句では「枯野」は冬の季語として使われます。
■ この詩が詠まれた背景
この詩は新古今和歌集 新古今和歌集 第八巻(哀傷哥 793首目)、および山家集 卷下に収録されています。
新古今和歌集の題に
「みちのくにへまかれりける野中に、めにたつさまなるつかの侍けるを、とはせ侍ければ、これなん中将のつかと申すとこたへければ、中将とはいづれの人ぞととひ侍ければ、実方朝臣の事となん申けるに、冬の事にて、しもがれのすゝきほのぼの見えわたりて、おりふしものがなしうおぼえ侍ければ」
(陸奥国に行った際、広い平地の中に目を引かれる塚があり、(地元の人に)問いかけたところ、「これはなんとかという中将の塚です」と答えてもらった。
「中将とはどこの方です?」と(西行法師が)聞くと、「藤原実方さんのです。」とのこと。
(陸奥国に行ったのが)冬の事で、(枯野には)霜によって枯れかけたススキが少し見え、(冬という季節もあって)物悲しく思えて(この詩を詠んだ)。)
とあります。
ちなみに私家集である山家集にも題があり、
「みちの國にまかりたりけるに野中に常よりもとおぼしき塚の見えけるを人にとひければ中將の御墓と申すはこれがことなりと申しければ中將とは誰が事ぞと又問ひければ實方の御事なりと申しけるいと悲しかりけるさらぬだに物哀におぼえけるに霜枯の薄ほのぼの見え渡りて後にかたらむ詞なきやうにおぼえて」
とあります。
■ 豆知識
作者は西行(さいぎょう)です。
小倉百人一首では86首目に「嘆けとて…」が選歌されています。
吾妻鏡には文治2年(1186年)8月15日、源頼朝と鎌倉で会ったことが記されています。
「二品銀作の猫を以て贈物に宛てらる。」と書かれてあり、銀でできた猫をプレゼントされたようですが、「上人これを拝領しながら、門外に於いて放遊の嬰児に與うと。」と、近くの子供にあげてしまったようです。
元々西行は、奥州藤原家の秀衡に東大寺復興のための砂金を勧進に行く予定だったようで、このことを知った上でか、頼朝が旅の邪魔にならない食料や路銀ではなく、わざわざ重荷になる「銀の猫」をプレゼントしたのには何か裏があったのかもしれません。
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