■ 解説
「わけのほる(分け登る)」は様々な道から登る、「おほけれど(多けれど)」はたくさんあるけど、「月をこそみれ」は月が見る、をそれぞれ意味します。
この詩が載せられている書のタイトルから、人はどんな人生を歩もうが必ず死ぬということを詠んだのかもしれません。
■ この詩が詠まれた背景
この詩は「骸骨」という書物に書かれている言葉です。
「骸骨」には文字通り骸骨の絵が描かれており、骸骨が葬儀を行う様子など、皮肉った様子が描かれています。
室町時代、幕府は臨済宗と新義律宗を特に庇護します。
政治的にも強い影響力を持つようになり、寺院は城砦化を進めたり、金融業に手を出すなど行っていたようです。
(金閣寺、銀閣寺は臨済宗の寺院です。)
当時の僧はお金さえ払ってしまえば高い地位に就くことも可能で、一休はこの事に強い不満を持っており、一般大衆にもわかりやすい形でパフォーマンスを行って風刺しています。
例えば飲酒、肉食、女犯、衆道などを行い公言して見せたり、切ることのできない木刀が入った朱塗りの鞘を腰に差すなどを行っていますが、これらは当時の豪奢な暮らしをしていて中身のない僧や武士たちを揶揄したものです。
「骸骨」は康正三年(1457年)四月八日に書かれたものです。
応仁の乱がおこる直前で、畠山義就と畠山政長との間で家督争いが起こっており、特に義就は頻繁に軍事行動を行っていたようです。
一休が73歳の時、畠山氏の家督争いはさらに大きなものとなってしまい、応仁の乱(応仁元年(1467年)〜文明9年(1477年))が起きます。
これにより、京は全域に渡って荒廃してしまいました。
■ 豆知識
作者は一休宗純(いっきゅうそうじゅん)で臨済宗大徳寺派の僧です。
南朝の天皇である後小松天皇の落胤とされており、酬恩庵一休寺にあるお墓(宗純王廟)は陵墓として宮内庁が管理しています。
一般には江戸時代に書かれた一休咄から派生した、とんちの名人、一休さんとして広く知られています。
「骸骨」には、この詩が書かれた同じコマに「行く末に やどをそことも さだめねば ふみまよふべき みちもなきかな」という詩が載せられています。
意訳すると、「人生に目標なんて決めなければ、道に迷うこともないだろね。」といった内容になります。
本願寺の僧である蓮如(れんにょ)とは宗派や年の差を超えた親友でした。
ある時、とある商人が書かせた馬の屏風絵に箔をつけてもらおうと、能筆で有名だった一休に一筆頼みます。
しかし、書かれた言葉は「馬じゃげな」(馬だね。)でした。
これはあまりにも酷いと一休に抗議したところ、蓮如を紹介されます。
そこで商人が蓮如にお願いしたところ、その隣に「そうじゃげな」(そうだね。)と書かれたそうです。
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