■ 解説
「嗚呼見の浦(あみのうら)」は現在の三重県鳥羽市小浜海岸周辺(最有力とされている説ですが、確定されているわけではありません)、「玉裳(たまも)」は裳(も)(腰から下に纏う筒状の衣服)の美称、をそれぞれ意味します。
■ この詩が詠まれた背景
この詩は万葉集 第一巻(雜歌 40首目)に収録されています。
題に「幸于伊勢國時留京柿本朝臣人麻呂作歌」(伊勢国へ(持統天皇が)御幸された際に、都にとどまった柿本人麻呂が詠んだ詩)とあります。
また左注として、
「右日本紀曰 朱鳥六年壬辰春三月丙寅朔戊辰以浄廣肆廣瀬王等為留守官 於是中納言三輪朝臣高市麻呂脱其冠位フ上於朝重諌曰 農作之前車駕未可以動 辛未天皇不従諌 遂幸伊勢 五月乙丑朔庚午御阿胡行宮」
(右(の詩は)日本書紀に朱雀六年(692年)壬辰の春三月丙寅の朔の戊辰(3月3日)に(官位)浄広肆の広瀬王等を留守官とする。
中納言、三輪高市麻呂(みわのたけちまろ)がその官位を脱いで朝廷にささげ、「農作の節に車駕を動かすべきではない」と重ねて天皇を諫めたが、天皇はその諫言を聞かず辛未(3月6日)に伊勢に御幸した。
五月乙丑の朔の庚午(5月6日)に、阿胡行宮(あごのかりみや)にお出ましになる。)
と書かれています。
■ 豆知識
作者は柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)で、三十六歌仙の一人、飛鳥時代の歌人です。
小倉百人一首では「あしびきの…」が選歌されています。
44首目までが伊勢国への御幸について詠まれた詩になっています。
なお、石上麻呂が詠んだ44首目以外は全て都で留守番していた人が詠んだ詩です。
「嗚呼見の浦」ですが、「嗚呼”兒”の浦」の間違いだったのでは、という説もあります。
その説に基づいて、国府白浜にはこの和歌の石碑が残されているそうです。
持統天皇が御幸された際に居られたとされる阿胡行宮の場所は現在も特定できていません。
■ 関連地図
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