きのふみし(滝善三郎)

辞世の句 に関する記事

きのふ見し 夢は今更 ひ記かへて
神戸か浦に 名をや残さん 滝善三郎

■ 訳

昨日見た夢は今となってはもう叶えることも出来ないが、せめて神戸の入り江に私の名を残そう。

■ 解説

「ひ記かへて(引き返て)」は引き返して、戻って、「神戸が浦」は現在の神戸港、をそれぞれ意味します。
善三郎は既婚者で子が二人いたため、「きのふ見し 夢」とは、もしかしたら妻や子供たちの将来についてだったのかもしれません。

■ この詩が詠まれた背景

この詩は備前藩の藩士である滝善三郎(たきぜんざぶろう)の残した辞世の句です。
明治政府高官や外国人公使たちが立ち合う中、永福寺で切腹しました。

明治元年(慶応四年)1月3日(1868年1月27日)、戊辰戦争が勃発し、明治政府は徳川方であった尼崎藩をけん制するために岡山藩に摂津西宮(現在の西宮市)を警備するよう命を下します。
1月11日、岡山藩の家老である日置帯刀(へきたてわき)が率いた援軍が神戸三宮神社付近に差し掛かったところ、近くの建物から出てきたフランス人水兵が、隊列を横切ろうとしました。
隊列を妨害する行為は武家諸法度に記されている「供割」という罪に当たるため、善三郎は制止しようとしますが、言葉も通じず、水兵は強引に渡ろうとしたため、持っていた槍で軽傷を負わせてしまいました。
(なお、当時は攘夷論(外国人を排斥しようとする思想)が色濃く残っていたため、傷を負わせたのは私怨があった可能性も考えられます。)
傷を負ったフランス水兵は一度部屋に戻った後、銃を持ち出して応戦しようとします。
拳銃を見た善三郎は鉄砲だと大きな声で隊に叫び、藩士たちは発砲命令と勘違いして銃撃戦になってしまいました。

隊を率いていた日置帯刀が迅速に撤退命令を出したことで死者は出ませんでしたが、隣接していた外国人居留地を視察していた列強諸国の公使たちに銃口を向け、頭上をかすめるように発砲されたことで問題はさらに大きくなります。

列強諸国(アメリカ、イギリス、フランス)は防衛目的と称して神戸中心部を軍事占拠した上、日本船舶を拿捕して人質とします。
この事により明治政府は早急な対応を余儀なくされました。
列強諸国からの要求は日本在留外国人の安全保証と善三郎の処刑でした。
明治政府はまだできたばかりで、江戸幕府と明治政府のどちらに主権があるのかを明らかにするためにも要求を呑む以外に手はありませんでした。
岡山藩は罪が重すぎると反対していましたが、明治政府からの再三の説得により、ついにその要求に屈してしまいます。
神戸事件の責任を負い、事件発生の一か月後となる2月9日、善三郎は永福寺で切腹します。
享年32歳でした。
なお、岡山藩家老で兵を率いていた日置帯刀も責任を取って謹慎しています。

■ 豆知識

善三郎のお墓は現在、神戸市兵庫区北逆瀬川町にある能福寺にあります。

この辞世の句は改変されたものが広く知られています。
現在残されている碑には、「きのう見し 夢は今さら ひきかえて 神戸の浦に 名をやあげなむ」と書かれています。
これは軍国化の影響だとする調査資料(PDFファイル)があります。

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