■ 解説
「やすみしし(八隅知し)」は”わが大君”に掛る枕詞(隅々までお治めになるの意味)、「高照らす(たかてらす)」は”日”に掛る枕詞、「荒栲の(あらたへの)」は”藤原”に掛る枕詞(藤で作った布(あらたへ)が語源)、「食す(をす)」はお治めになる、「見したまはむ(めし給はむ)」はご統治なさる、「みあらか(御舎)」は御殿、「高知らさむ(たかしらさむ)」は立派に建てられる、「神ながら(かむながら)」は神として、「思ほすなへに(おもほすなへに)」は思われたちょうどその時に、「天地も(あめつちも)」は天津神も国津神も、「寄りてあれこそ(よりてあれこそ)」は付き従っている(”こそ”は強調)、「石走る(いはばしる)」は”近江”に掛る枕詞(意味は水がしぶきを上げながら岩の上を激しく流れる様子)、「近江の国(あふみのくに)」は現在の滋賀県、「衣手の(ころもでの)」は”田上山”に掛る枕詞(手(た)と同音であるため)、「田上山(たなかみやま)」は現在の滋賀県大津市南部にある山々の総称、「真木さく(まきさく)」は”桧”に掛る枕詞(木の割れ目を”ひ”と呼ぶため)、「桧のつまで(ひの枛手)」はヒノキの材木、「もののふの(武士の)」は”八十”に掛る枕詞(氏が多いことから)、「八十宇治川(やそうぢがは)」は現在の滋賀県、京都府、大阪府を流れる川(瀬田川、宇治川、淀川)、「玉藻なす(たまもなす)」は”浮かべ”に掛る枕詞(美しい藻の意味)、「騒く御民も(さわくみたみも)」は忙しく働く民(”御民”は天皇の臣下であると人民が自ら使う言葉)、「家忘れ(いへわすれ)」は家族を忘れ、「身もたな知らず(みもたなしらず)」は自分の体を顧みず(”たな知る”は十分にわきまえるという意味)、「鴨じもの(かもじもの)」はカモのように、「知らぬ国(しらぬくに)」は未統治の国、「寄し(よし)」は近づく、「巨勢道より(こせぢより)」は現在の奈良県御所市の南西部を通る道から(”寄し巨勢”を良し来せ、もしくは寄し来せと掛けているものと思われます)、「常世にならむ(とこよにならむ)」は永遠になるだろう、「図負へる くすしき亀(あやおへる 奇しきかめ)」は絵図を背負った神秘的な亀(亀は縁起物であるため、吉兆を詠んだものと考えられます)、「新代(あらたよ)」は新しい時代、「泉の川に(いづみのかはに)」は”泉”と”出づ見”を掛けた言葉、「真木のつまで(まきの柧手)」は荒削りの材木、「百足らず(ももたらず)」は”筏”に掛る枕詞(百に足らない数であることから八十(やそ)、五十(いそ)、もしくは「や」や「い」から始まる言葉に掛ります)、「泝すらむ(のぼすらむ)」は(川の流れを)さかのぼるのだろう(推量)、「いそはく見れば」は勤しむ様子を見ると、「神ながらにあらし」は神そのものであられるのだろう、をそれぞれ意味します。
■ この詩が詠まれた背景
この詩は万葉集 第一巻(雜歌 50首目)に収録されています。
題に「藤原宮之役民作歌」とあり、藤原宮で働く民が詠んだ詩です。
なお左注として「右日本紀曰 朱鳥七年癸巳秋八月幸藤原宮地 八年甲午春正月幸藤原宮 冬十二月庚戌朔乙卯遷居藤原宮」(右(の詩は)、日本書紀では朱鳥七年癸巳(693年)秋八月に藤原宮地に御幸、朱鳥八年甲午(694年)春正月に藤原宮地に御幸、冬十二月六日(694年12月30日)に藤原宮に遷都した。)と書かれています。
■ 豆知識
作者は藤原宮で働いた人物であるということ以外不明です。
難解な枕詞が多用されていることから、人麻呂説もあります。
非常に長く、また枕詞が邪魔をして読みづらい詩ですが、一行でまとめると、
「神様だって従う、現人神たる天皇の命で、みんな一生懸命働いて立派な宮殿を建てました。」
といった感じになるでしょうか。
■ 関連地図
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