■ 解説
「あら玉の(荒たまの)」は”年”に掛る枕詞、「年もかはらで(としも変わらで)」は年越し前に、「志りける(しりける)」は知った(”ける”は”けり”の連体形)をそれぞれ意味します。
■ この詩が詠まれた背景
この詩は新勅撰和歌集 第一巻(春歌上)に収録されています。
題に「うへのをのこども年の内に立つ春といへる心を仕うまつりける次でに」(殿上人に年内に立春となった趣を(詠むよう)申し上げられた際に)とあります。
■ 豆知識
作者は後堀河天皇(ごほりかわてんのう)で、第86代天皇です。
鎌倉幕府は承久の乱によって幕府と敵対関係であった後鳥羽上皇、順徳上皇、土御門上皇を配流(土御門上皇は元々討幕に反対でしたが、自ら進んで配流となりました)、順徳上皇の皇子であった仲恭天皇を退位させ(4歳で即位しわずか78日で退位させられています)、幕府の意向に沿う後堀河天皇を即位させました。
即位された後堀河天皇は当時10歳と若く、政治は父である守貞親王が過去に前例のない形で太上天皇(後高倉院)として院政を執ることで承久の乱の後処理を行いました。
(後高倉院はその2年後薨去されています。)
後堀河天皇はもともと体が弱く、中宮であった藤原竴子(ふじわらのしゅんし)を失った悲しみからか、竴子の死から約1年後、23歳という若さで崩御されました。
息子である四条天皇も12歳という若さで崩御しており皇子女もなかったため、後鳥羽天皇の血筋である土御門上皇の息子、後嵯峨天皇が皇位を継ぐこととなります。
新勅撰和歌集は後堀河天皇が藤原定家に下命を出し、定家が単独で選歌した勅撰和歌集です。
定家は新古今和歌集も選歌していますが、余情ある新古今和歌集と違い保守的なのが特徴です。
なお、下命を出された後堀河天皇はまだ2歳の四条天皇に譲位後、23歳という若さで崩御されたため、完成し奏上したのは四条天皇の代になってからです。
旧暦の場合、立春が12月中に起こることはそれほど珍しいわけではありません。
12月中に起こる立春を「年内立春」、新年1月中に起こる立春を「新年立春」、元旦に起こる立春を「朔旦立春」、立春が無い年を「盲年」と呼びます。
場合によっては年に二回、立春が起こる年もあります。
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