霞立つ(小野氏淡理)

短歌 に関する記事

霞立つ 長き春日を かざせれど
いやなつかしき 梅の花かも 小野氏淡理

■ 訳

霞がたなびいている麗らかで長い春の日。
髪飾りにしてみたけれど、なんとも好ましい梅の花だなあ。

■ 解説

「霞立つ(かすみたつ)」は霞がかかっている、「長き春日を(ながきはるひを)」は長い春の日を、「いやなつかしき(いや懐かしき)」はいやはや好ましい(「いや」は感動詞、「懐かし」は好ましい(形容詞))、をそれぞれ意味します。
「霞立つ(かすみたつ)」、「春日(はるひ)を」は「春日(かすが)」に掛かる枕詞にもなりますが、今回は枕詞ではありません。

■ この詩が詠まれた背景

この詩は万葉集 第五巻(雜歌)846首目に収録されています。
以前紹介した、大宰帥であった大伴旅人の屋敷で行われた宴会の席で詠まれた詩です。

■ 豆知識

作者は小野田守(おののたもり)です。
父は小野毛野(おののけぬ)で中納言、兄弟に大宰大弐を務め、この梅花宴の第一首目を詠んだ小野老(おののおゆ)がいます。
遣新羅大使、遣渤海大使を歴任しており、帰国後には従五位上を叙せられています。
(ちなみに従五位から貴族と呼ばれます。)

天平宝字二年十二月十日(759年1月17日)、渤海から帰国した小野田守からの報告で、朝廷は唐で起こった安史の乱を知ることになります。
これにより、大宰府に警戒態勢が敷かれました。
また、唐の影響力が低下したことを見込んだ藤原仲麻呂が、長年対立関係にあった新羅を征討すべく計画を立案しましたが、その前に恵美押勝の乱(藤原仲麻呂の乱)を起こし、敗北して処刑されたため無効となりました。
(ちなみに遣新羅大使であった小野田守も新羅で失礼な扱いを受けたため、任務を果たせず帰国しています。)

小野田守が渤海大使を任ぜられ出国する際に、大伴旅人の息子である家持が詠んだ詩が万葉集に載せられています。(第二十巻 4514首目)
天平宝字二年二月十日(758年3月27日)のことで、この宴から28年も後のことですが、小野家とは家族ぐるみで付き合いがあったのかもしれません。

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