■ 解説
この句は自由律俳句と呼ばれるもので、五七五の形式や季語にとらわれることなく詠まれた句です。
語句に解説の必要はないかと思いますが、「けふ」は今日で、流浪の旅を続けてきた山頭火の旅路の小さな発見を詠んだ句です。
自由律俳句なのであまり意味がありませんが、「たんぽぽ」は俳句では春の季語になります。
■ この詩が詠まれた背景
この詩は荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)主宰の「層雲」の昭和七年(1932年)5月号の「「春菜」層雲二百五十号記念集」に「歩々到着」という題で載せられています。
序文に「禅門に「歩々到着」という言葉がある。それは一歩一歩がそのまま到着であり、一歩は一歩の脱落であることを意味する。一寸坐れば一寸の仏という語句とも相通ずるものがあるようである。
私は歩いた、歩きつづけた、歩きたかったから、いや歩かなければならなかったから、いやいや歩かずにはいられなかったから、歩いたのである、歩きつづけているのである。きのうも歩いた、きょうも歩いた、あすも歩かなければならない、あさってもまた。」
とあります。
■ 豆知識
作者は種田山頭火(たねださんとうか)です。
俳号は占いなどで使われる納音(なっちん)から取られたもので、本名は種田正一(たねだしょういち)です。
42歳の頃出家して耕畝(こうほ)と改名しました。
元々は大地主の息子でしたが、父である竹治郎には遊蕩癖があり、そのことを苦にした母は山頭火が10歳の頃自殺、父が始めた酒造は酒造開始から2年目に酒造に失敗して家財全てを売り払うこととなります。
山頭火が俳諧で頭角を現し始めた34歳の頃、酒造業の経営に失敗した父は失踪、自身は友人を頼って熊本に引っ越しますが、弟は背負った借金を苦に自殺し、自身も酒に溺れる日を過ごします。
その後、妻子と離縁し単身上京しますが、関東大震災で元妻の元に逃げ帰り、報恩禅寺の元に預けられて42歳の頃出家します。
翌年から雲水姿で各地を各地を旅しながら、「層雲」に投稿を続けました。
昭和十四年(1939年)12月頃、友人の好意で愛媛県松山市に一草庵を得ますが、翌年の10月11日早朝、亡くなっているところを発見されました。
死因は脳卒中でした。
昭和13年に発行された「広島逓友」の「述懐」の一文に「私の念願は二つ。ただ二つある。ほんとうの自分の句を作りあげることがその一つ。そして他の一つはころり往生である。病んでも長く苦しまないで、あれこれと厄介をかけないで、めでたい死を遂げたいのである。私は心臓麻痺か脳溢血で無造作に往生すると信じている。」と記していますが、その望みはどちらも叶ったのだと思います。
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